野田聖子(のだ せいこ) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1960年(昭和35年)9月3日生まれ。福岡県北九州市出身。乙女座、A型。夫は参議院議員・鶴保庸介。 祖父は大蔵事務次官から政治家に転身し、衆議院議員として経済企画庁長官、建設大臣などを歴任した野田卯一。元々の名前は島聖子、政治活動を始める前に祖父野田卯一の養子となり野田聖子となる。形式的には世襲といえるが、選挙地盤や看板を受け継いでいない点で厳密には世襲議員とはいえない。 田園調布雙葉学園(中学高等学校)に在学中、校則違反のバイク免許取得が問題となり中退、ミシガン州ジョーンズヴィル・ハイスクール(Jonesville High School)に一年間留学して卒業。1983年、上智大学外国語学部比較文化学科を卒業し、帝国ホテルに入社。 1987年、岐阜県議会議員に立候補し当選する。この時期に消費税導入をめぐって政府・自民党と社会党との攻防(社会党は1989年の参院選で議席倍増)を目の当たりにし、女性の立場から社会党の土井たか子人気に動揺、危機感と政治家としての自覚を持ち、国政を目指すことを決意する。第39回衆議院議員総選挙(1990年)では自民党からの公認が取れず、旧岐阜1区から立候補するも落選。第40回衆議院議員総選挙(1993年)に再度の立候補、「衆議院にも自民党の女性議員を」との公約を掲げて初当選した(当時、衆議院に女性自民党議員は皆無だった)。以後、当選4回。 初当選で登院して成立した内閣は細川内閣で自民党は野党へ転落したため、野党の立場から政治活動をすすめる。第二次橋本内閣で郵政政務次官に就任(1996年11月7日)。1998年7月30日に成立した小渕恵三内閣では、郵政大臣に抜擢される(37歳・戦後最年少入閣、田中角栄の最年少記録39歳を更新)。郵政大臣に就任した際、首相・小渕からは「将来の女性首相候補」と持ち上げられ、野中広務、古賀誠らからも目を掛けられた。1999年、自民党国会対策副委員長、衆議院議院運営委員会の議事進行係になる。議事進行役は将来有望な若手議員が抜擢されることが多く、初の女性進行係となったことで話題となる。2000年、自民党政調副会長、筆頭副幹事長に就任。 夫とは事実婚を実践して男女共同参画社会の構築を唱導。夫婦別姓に関しては選択的夫婦別姓を主張。ただし夫は夫婦別姓の法律が成立した時点で同姓にする旨約束したと公表している。政策課題の筆頭として子どもの問題を重視し、児童買春・児童ポルノ禁止、発達障害(超党派「発達障害の支援を考える議員連盟」に所属して2001年11月24日、発達障害者支援法は成立)などの課題に積極的にかかわっている。 趣味は読書、映画鑑賞、カラオケ、パソコン。日本酒党で「日本酒を愛する女性議員の会」(幹事長:小渕優子)で会長を、また日本酒造協会では顧問を務めている。メールマガジンの名称は「キャサリン通信」だが、このキャサリンは飼い犬(フレンチ・ブルドッグ)の名前。不妊治療の辛いときに橋本聖子に勧められて飼うことにしたという。 <著作> 『アイアム聖イング』(海越出版社、昭和62年) 『改革という美名の下で』(海越出版社、平成6年) 『国民のみなさまにお伝えしたいこと』(PHP出版社、平成8年) 『私は、産みたい』(新潮社、平成16年) <趣味> 読書、映画鑑賞、カラオケ、パソコン
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